みんな、無駄がないのが大好きだ。
効率よく仕事をし、私生活も充実させなければならないらしい。
弛緩する時間さえ、仕事の効率を上げるための、あるいは美しくなるための道具、みたいな発想をよく見かける。
見かけるたびに「うへえ」と思う。
友だちや恋人や家族まで、(自慢の種や生活の利便のための道具として)良いのをそろえておいたほうがいい、みたいな言説に至っては、「そんなの好きにしろ」だ。
そういう世界は砂漠だ。なぜかというと、自分の存在にはそもそも意味がないのに、あらゆる存在に意味を求めるからだ。
他者の規定の方法論は簡単に自己規定に跳ね返ってくる。
意味のあるべき世界での意味のない自分。それに耐えるためには、「自分だけは根拠なく特別であって、しかし他者がそれぞれ『自分だけは根拠なく特別だ』と思うことは想像だにしない」、または「他人もそう思っていることを想像しながらも強靭に『自分にとって他人は機能なのだ』と認識する」という処理が必要だ。難易度が高すぎる。
そういう処理をせずにいると、「存在には意味がなければならない」という脅迫に苦しめられる可能性を常に抱えて生きることになる。仕事がうまくいかなくなったときとか、馘首になったときとか、誰かの役に立てなくなったときとかに。
そんな大変なこと、よくする気になれるよなーと思う。
私には無理だ。
他人も自分もただなんとなく発生してしまったもので、だから何をしてもしなくても、どんな役割を果たしても果たさなくても、その存在は肯定されなければならない。
そう思う。
無為に過ごした時間に意味なんかない。回り道が自分を成長させたなんて欺瞞だ。病気になっていいことなんかひとつもない。
でもそれでいいんだ。だってもともと私のすべての時間には意味も価値もないんだから。
他人は機能ではない。
ときに機能するが、それは他人そのものではなく、職業のような、社会に埋め込まれた役割が機能するのだ。
他人は意味のない存在だ。私と同じに。そうして個人的な人間関係は、機能でないところで成立するものだ。個別に理解を試みて右往左往するものだ。
そう思わないと、私は自分も他人も愛することができない。